「新潟滞在中」
朝、目めを覚ますやいなや、手を動かしたり足を動かしたり、まばたき等をするたびに、この身体として生きていることを認識できる。
にもかかわらず、あるいは、だからこそ、この身体はそれ自体としては意識されないままになっている。
この意味では身体を離れての自分という存在はありえないことになる。
人間が、いわゆる物質的なもの、心的なもの、生命的なものを認識できるのは、人間自身がこれら三つを統合したものだからであり、精神と身体は同一の現象なのである。
「わが身」「身につく」「身にしみる」「身を入れる」「身になってみる」「身につまされる」…
これらの「身」は、身体・心・自己・立場という言葉に置き換えられる。
科学でいうところの身体は、具体的な人間存在の中でのことである。われわれが出会う自分の身体や他人の身体から、さまざまな意味を棄てることによって成り立っている。
しかし人間の感覚(精神)はそれを超えているようだ。
たとえば、子供が“くすぐりっこ”をしているとしよう。
同じ刺激を自分で自分に与えてもくすぐったくないのに、相手からされるとくすぐったく感じる。
また、まだくすぐられてもないのに、相手が近づいてきただけで、くすぐったく感じてしまう。
この例でわかるように、人間の感覚(精神)はやはり超えているのだ。つまり、単に生理学的な現象だけでは説明がつかないのである。
だから感覚(精神)とは、われわれをつらぬく「実存」のあり方に応じて、より複雑な意味をもってくるのである。
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