「我想う ゆえに我あり」
正しく言えば「私は想う(考える)」だけではなく、「私は感じる、私は想像する、私は欲望する、私は行動する、故に我あり」なのである。
ここで言う「私」が身体から切り離されたら…
その「私」は本来の働きを失うだろう。
しかし、このことは、セルフが力を失って、想像や幻覚の世界に入り込み、コントロール不可能の欲望に身をまかせている輩の「私」にも言えることである。
彼らは、自らをコントロールしながら人間的なものになっていく身体なのではなく、単なる炭素体ユニットに過ぎないのである。
正しい条件づけとは、努力によって獲得され、いまなおセルフコントロール下にある条件づけのことである。それは、必要な目覚め;「開かれた気づき」を強化し、われわれの脳が持つ、さらなる可能性を引き出し、自由を拡大するような条件づけである。
われわれは下手に創られた存在ではなく、下手に育てられた存在である。
自分の欲望をむやみに抑圧したり、爆発させたりすることは教えられたが、それを上手にコントロールすること、フロイト流に言えば、昇華させることは学ばなかったのである。
一般に「快(幸)」と「不快(不幸)」を区別することにのみ心を奪われ、開かれた気づきを妨げる焦燥感や不安に満ちた目覚めと、苦痛であれ快楽であれ、それらを明晰に「あるがままに」受けとめている目覚めとを、区別する重要性が理解されていないのである。
このような目覚めの状態を、西田幾多郎博士は…
「わがこころ 深き底あり」
「喜びも憂いの波もとどかじと思ふ」
…と詩で表現された。
すごい心境である。ここまでセルフコントロールできれば、この世に「怖いものなし」かもしれない。「悟り」の境地である。
私も最近になって、やっとセルフコントロールの何たるかがわかってきたところであるが、とてもとても博士のような心境には遠く及ばない。
日々、努力精進だな !
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