ある感覚に対して注意を集中すれば、当然その感覚は鋭敏になり、この感覚の鋭敏さは、ますます注意をそこに集中させる。
この感覚と注意とがさらに交互に作用しあって、ますます感覚を過敏にする心のからくりを、森田正馬博士は「精神交互作用」と名づけられた。
痛みだけでなく、病気のいろいろな症状による苦しみを自分で拡大している場合、精神交互作用または心身交互作用が働いていることが多い。
この種のとらわれは内向的で自己保存の本能、自己実現への意欲や向上心の強い人によく現れる。
このような「生の欲望」が強いために起こる、感覚と知性のからまわりによる病状を
森田神経質と呼ぶ。
森田療法では、不安を回避したり、否定したりしようとして、悪あがきをせずに、あるがままに受けとめて、それとともに生きるように訓練する。
この療法は日本独自のものとして高く評価されているが、もちろん万能ではない。あくまで、森田神経質タイプのクライアントがその対象であり、クライアントのペースに応じて様々なプラスアルファが必要なことは言うまでもない。
森田療法では「あるがまま」ということが強調され、リラックス訓練もあるがままの現実を肯定的に受け入れてゆく自然法爾(じねんほうに)のあり方をめざしている。
このような自然法爾の思想は、本来微妙で深遠な東洋的智慧ではあるが、ややもすると浅薄な“そのまま主義”におちいる危険もひめているので注意しなくてはならない。
自然法爾が真に自然法爾であるためには、「人事を尽くして天命を待つ」といった、人としてなすべきことがなされていなければならないだろう。
禅宗の高僧も…
「宗教生活における受動性は、激しい能動の最後に生起するもの」と述べられている。
これが、安易な依存や他力本願と、「生かされている」ものとしての深い自覚にたつ全託との相違なのである。
能動的なものの裏づけがない受動性・受容性や現実肯定の態度は、それが現実のどんな不条理に遭遇しても、問題の核心に迫ることもないままに、次元の低いぬるま湯に入ったような自己満足に過ぎず、これは闘争心を麻痺させるアヘンのようなものなのである。
最後に芭蕉のことばより…
「見るところ花にあらずいふことなし、おもふところ月にあらずいふことなし」
自然界にひそむ新しい秩序の発見、そして自然への賛歌、さらには畏敬の念…
これが「いまここで」「あるがままに」なのである \(^_^)/
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