私は交流分析での日常態~「いまここでの姿」を S と呼んでいる。
この S は、知性、感情、道義心などのいずれにもとらわれず、しかもそれらを総動員した目であり、いわば「全身眼」とでもいうものである。
アメリカの文学者エマソンは、この全身眼を「見るもの SEER」とよび、ここに道徳や宗教の源を見出している。
彼の詩に・・・
私は心の底に神を見る
私は不断にそこに神の声を聞く
私の内なるこの SEER は決して誤ることはない
私が正しく行えるのは ただそれに従うからである
禅宗の言葉にも・・・
「直指人心(じきしにんしん)」~自己の本来の心を厳しく
見つめれば、それが仏の悟りにほかならない
瞑想が深まれば必ずシーアとの出会いがあります( ̄∀ ̄*)イヒッ
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