科学文明の発達は、超越的な『神』に対する信仰を崩しつつある。
事実、小浜くんの国では日曜礼拝に参加する人たちが年々減ってきている。
そのことがきっかけかどうかは知らないが、小浜くんの国の大学では「死の教育」というコースが設定され、ボスの博物館などには「死と喪失の展示会」と称する催しが行われ反響を呼んだことさえある。
現代っ子は日常で「死」を見ることが少なく、肉親やペットや友人などの「死」に戸惑い、ノイローゼになったり、共感して一緒に自殺までしたりしている。
いとも簡単に人を殺す。まるでゲーム感覚のように…
これは生命の尊さを実感する機会が乏しくなったことに起因しているのだが、一般には若い世代に「死」「老化」を忘れがちな傾向が強い。
私の近所の小学校では、みんなで可愛がっていたウサギが病気で死亡してから、子供たちは動物の死をみずから体験することによって、次に飼うときはもっと大事に育てることを学んだという。
上智大学の心理学者デーケン教授は…
「人生の重大な試練には、必ず、教育や訓練によって準備をととのえている。それと同様に、人生最大の試練である『死』に対して、なんの準備もないのは片手落ちだ、悲しみを乗り越える教育も大切だ」
と言っておられる。
「いまここで」の生活の中で『命』への目覚めを説くべき日本の仏教が、死者の弔いに片寄りがちなのは嘆かわしいことだが「死の教育」は「生の教育」の本質につながるのである。
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